練馬大根と漬物の歴史


「練馬大根原種」選別風景(昭和2~3年ごろ、練馬大根の生みの親である鹿島安太郎家の畑)
練馬大根の歴史
練馬といえば、すぐ練馬大根が想起されるほど、その名は天下に轟いている。
練馬大根は、江戸時代に練馬村で作り始めた大根で、栽培最盛期は元禄期からといわれる。元禄10年刊の『本朝食鑑』(ほんちょうしょっかん)には「江都近郊、最も美ナル者ノ多シ。なかんづく根利間 (ねりま)、板橋、浦和之産、為勝タリ」とある。
これは古い品種の練馬大根で、新種の練馬大根が誕生したのは享保期以降と考えられ、古い品種の練馬大根に北支那系の品種(小石川薬園の大根種)が交雑してできたのが新品の練馬大根(練馬尻細)だと推測されている。
練馬大根の興隆期は江戸中期から明治前期で、この頃に日本一の名声を博し、生大根、干大根、沢庵漬としての生産が著しく向上したとされ、このことを示す文献も数多く残っている。

練馬大根の連干風景
(昭和7年)

工場にて漬け込む前の乾燥「練馬大根」
(昭和17年ごろ)
練馬大根の最盛期は明治後期から大正期。
昭和初期から衰退期に入って行く。
練馬大根の需要が増大し、沢庵漬を多量に生産、国外にも輸出されるなど練馬大根の栽培が大幅に拡大した、いわゆる最盛期が明治後期から大正期にかけてであった。この頃になると、練馬、大泉地区などにぼつぼつ農家の副業としての沢庵製造業者が誕生するようになった。
しかし、隆盛をきわめた練馬大根も、昭和期に入るとともに徐々に衰退していくことになる。この原因としては①昭和8年にモザイク病が発生、以降、再三の被害を受けた ②戦後、沢庵漬の大口需要が減少した ③食生活の洋風化などで野菜の消費傾向が変化した ④都市化の進行で生産用地が減少したなどがあげられる。
ちなみに、ある資料によると、江戸時代の生産量は定かでないが、明治以降の生産量でみると、明治7年=18町5反歩、大正元年=2,405町歩、大正15年 = 3,381町歩、昭和元年= 2,839町歩、昭和19年= 2,504町歩と推移し、終戦時の昭和20年には1,076町歩と急降下、以降年々減少傾向をたどり、昭和58年には遂に19町歩となり、練馬大根の栽培はほとんどその姿を消失する。前記の原因に加え、戦時中の人 手不足、農業資材の不足、肥料の不足などが重なったことが大きな要因であった。

陸軍糧秣廠供出用の練馬沢庵
(昭和19年ごろ)

都心の市場へ馬車で出荷された練馬沢庵
(大正6年ごろ)
練馬大根の復活・伝承のために
練馬区では、練馬大根の地位と名声を今に伝承せんものと、平成元年以降、練馬大根育成事業を実施している。農家に練馬大根栽培を委託、漬物工場の協力により練馬沢庵を製造販売し、練馬の伝統産業を必死に守っている現状だがこれらの活動、努力の結晶により衰退していた練馬大根は、新しい人々によって再び蘇ろうとしている。<参考資料:練馬区郷土資料室〉
練馬漬物業界の変遷
練馬といえば大根、大根といえば東京沢庵
練馬大根の最盛期、大正から昭和初期までは、練馬地区(練馬、石神井、大泉の三地区)は大根をはじめ胡瓜、茄子、瓜などの生産地として全国に名を馳せた。特に練馬大根に代表される東京沢庵の名声は全国に知れわたり、練馬といえば大根、大根といえば沢庵漬とまで称せられた。
この時代には専門の漬物加工場も急増し、軍隊、学校、病院などに大口需要として納入されたのを始め、鉱山、工場にも多量に出荷され、需要の拡大とともに沢庵漬の価格も高騰した。専門の加工場では漬け方にも工夫を凝らし、単に塩と練だけに頼ったそれまでの沢庵漬からは味わえない、より美味なものを作り出そうとする試行錯誤が行われ、これが沢庵漬普及にもひと役買ったようである。
最盛期には数十万樽の生産を誇り、まさに練馬の沢庵漬は“東京沢庵”として全国に轟いた。大手漬物 メーカーが練馬地区に進出するようになるのは戦後間もなくである。

大根をはじめとした原料産地としての練馬地域の変容
戦後の混乱期を経て、朝鮮戦争による軍需景気を契機にして日本経済が発展と共に工業化、宅地化が顕著となり、このため必然的に農地の転用が激増、練馬地区の農耕地もその姿を消していくことになる。耕作地の極端な減少に伴い原料不足を補うため、昭和30年代の初期あたりから近郊の群馬、埼玉周辺に生産代替地を求め原料大根はじめ諸原料の確保に躍起となったが、それでも間に合わず、30年の中期以降は千葉、茨城、栃木、福島あたり、果ては遠く海外にまで間口を広げていくことになる。
これら原料手当てと並行して、工場の原料産地移転も活発となった。日本経済の発達とともに、郊外にあった練馬地区も副都市として変貌を遂げつつある中で、昭和40年代に入ると、いわゆるバブル経済のまっただ中に突入し、地価の高騰、人手不足による人件費の高騰等が社会問題となり、練馬地区の、特に沢庵業界は従来の本社工場を産地に移転、設備の機械化を進め工場内部の近代化・合理化を図っていく。
また一方では、練馬地区の都市化に適合してマンション建設に乗り出すもの、あるいはレストラン、ガソリンスタンド、ストアーなどの経営に転業、また副業的に取り組むといった形態が表面化するのもこの時期である。

時代の変遷とともに、大きく様変わりして行く練馬地区の漬物業界
練馬漬物業界は沢庵漬とともにその足跡を印してきたが、飽食時代を迎える時代の移り変わりとともに多岐化するニーズ、消費構造の変化、あるいは都市化の変貌等々への対応を迫られるようになり、従来の沢庵専門企業から一夜漬を始めとする浅漬等の製造企業、刻み漬、生姜、キムチなど独自の商品開発型企業、更にはスーパー等の台頭による大 型小売店への流通対応型企業など、その業態は多種多様化してくることになる。
昭和50年代になると、時代の波は更に移り、東京のベッドタウンとしての都市化に一段と拍車がかかり、流通サービスとしての拠点づくりが確立されるようになり、昭和60年代から平成年代ともなると、バブルがはじけ新しい変革の時代に突入、特に平成年代はかつて経験したことのない新たな対応を迫られている。

戦後間もなく、「和と親睦」をモットーに60名で発足した練馬漬物親睦会・練馬漬物事業組合
75年の年月を経て練馬漬物事業組合は現在25名の会員に減少しているが、この間、原材料手当て(契約栽培等)と産地の育成、住宅地化による下水道問題への対応を施しながら、伝統産物である東京沢庵はじめ練馬の産物のPRを通じ広く消費者の理解を得るとともに、区内産業の発展に向けて鋭意努力している。
江戸時代から培われた練馬大根発祥の地であり、東京沢庵の生みの親である練馬地区漬物業界は、その伝統を今も引き継ぎ、沢庵漬を始め、刻み製品、生姜漬、キムチ、浅漬け、梅干、べったら 漬等々、長い伝統と新しい技術から生まれる、古くて新しい健康食をモットーに、今も漬物業界の中で大きな比重を占めている。練馬漬物事業組合の活動は、先人達の歩みを止めることなく今も全国の一大流通拠点としての役割を充分発揮している。
練馬大根年表
和暦西暦ことがら
5世紀『古事記』『日本書紀』に、仁徳天皇が詠んだ大根の歌が載っている(大根の初見)。
寛永の頃1640年頃伝説では、沢庵漬は沢庵和尚が作り始めたという。
寛文・延宝頃1660~1670年頃伝説では、後の将軍綱吉が練馬で大根を栽培させたという。
天和31683地誌書『紫の一本』に、練馬大根の名が初めてみえる。
享保年間1716~1736新種の練馬大根が作られる。伝説では、百姓又六が作り始めたという。
延享51748朝鮮国使の土産に、練馬大根の種子と練馬の土を贈る。
寛政61794官撰地誌『四神地名録』に、練馬大根は日本第一との記載がある。
天保71836漬物専門書『漬物塩嘉言』に、沢庵の漬け方がくわしく載っている。
明治51872練馬の生産量は、沢庵漬が東京府全体の80%、干大根が30%を占める。
明治101877第1回内国勧業博覧会で、相原房次出品の練馬沢庵漬が表彰される。
明治131880練馬沢庵漬を中国へ輸出する。
明治末~昭和初1900年代~1920年代練馬大根の最盛期。この頃の沢庵生産は年間60万樽に達した。主産地は、練馬・板橋・中野・杉並辺りである。
昭和21927鹿島安太郎らが、大根採種事業を始める。
昭和31928昭和天皇即位大典に、島野吉五郎が大根を供納する。
昭和81933大干ばつ。大根心食虫、大根モザイク病が発生、被害甚大。
以後、病虫害度々発生し、練馬大根の栽培は衰退していく。
昭和151940「練馬大根碑」を建てる。
昭和271952練馬大根を復活しようと、大根栽培技術改善共進会を開く。
昭和30~1955~都市化が進み、耕地の減少著しい。練馬の農業は大根に代わり、キャベツが主作物となる。
平成元1989練馬区が、練馬大根育成事業を始める。
[練馬区郷土資料室より]